出川哲朗 大阪市立東洋陶磁美術館 館長
大阪市立東洋陶磁美術館で田辺竹雲斎のインスタレーション制作が始まったのは2019年12月で、2週間の制作期間を経て、完成した巨大な作品は美術館のエントランスホールの空間を全く異質にするほどのインパクトがあった。展覧会自体は無事に開幕したが、COVID-19のパンデミックにより、2020年2月29日から美術館の臨時休館を余儀なくされた。展覧会予定の4月12日を過ぎても休館は続き、ようやく2020年6月2日から美術館は再開した。田辺竹雲斎のインスタレーションだけは展示が9月27日まで続けられ、新たな美的体験ができた。COVID-19の世界的大流行の発生期に展覧会が始まり、パンデミックによる3か月余りの美術館臨時休館を経て、再び公開された作品は、見る側の意識の変化もあり、新鮮な気持ちで鑑賞されたであろう。美術館のエントランスに設置され、9か月間も見続けてきた作品が、日常の風景として同化しないで、常に新しい問いかけをしてきたのである。それはインスタレーションという展示期間が定められた作品の持つ宿命的なものであると同時に、この作品の永遠性を感じさせるものがあったからであろう。見慣れた作品となっていったにも関わらず、見るたびに作品が新たな変容を起こしていると思わずにはいられなかった。一つには現在進行形としてのCOVID-19の大流行の先行きに対する不透明さもあり、またもう一つには田辺竹雲斎のインスタレーション作品そのものに内在する本質的な要素もあった。その要素とは竹ひごの作るミクロな構造と全体としての有機的形態に由来するものである。作品が巨大であるがゆえ、作品を眺める視覚が一度に全貌をとらえきれずに、行き来するときに生じる眼と意識の動きである。作品がさまざまな形をとって現象してくることに、ある種の動きと、存在の深さを感じざるを得ない。
本書のように鑑賞者の視点の動きをある意味で取り出し、客観的に見えるようにしているのはフォトグラファーの眼とブックデザイナーの感性である。鑑賞者がインスタレーションを見るたびに感銘を受け、作品の奥に潜む存在を明らかにしようという視覚の動きが、ある程度写真によって提示され、その写真によって、実際の作品と対峙した鑑賞者は、作品鑑賞の追体験を再構成することも可能かもしれない。ある時は写真によって全く気がつかなかった別の美しさを発見することもある。インスタレーションのはかなさとは次元を異にするインスタレーションの画像である。印刷によって永遠に記録されるインスタレーションは別の作品となって、また新たな鑑賞者を得ることにもなる。
フォトグラファーの意識がそうであるように、実際のインスタレーション作品を鑑賞した人間の言葉もまた写真と作品を繋ぐ役割を担うことにもなる。それは同時代に現場で作品を鑑賞することから発せられる、同時代の言葉である。COVID-19の時代を経ても作品は変わることはない。作品が制作された時代の雰囲気もそれほど変化することはないであろう。多くの人々にとって、歴史としてのCOVID-19の時代の記憶は社会現象の目撃者となっても、いつか記憶は風化してしまい、インスタレーション作品の強烈な印象が、見た人にはいつまでも残っていくであろう。この田辺竹雲斎のインスタレーションを記録するにあたって、フォトグラファーによる写真のほか、ドローンによる写真また、3Dデジタル画像によって、鑑賞者からは不可能と思える視点から、作品の造形を確認することすらできるようになった。カメラの視点は鑑賞者の視点を超えて、巨大な作品を俯瞰することもできるし、また田辺竹雲斎のインスタレーションの内部空間に入り込んだ視点すらもディスプレイ上の仮想現実によって可能となった。インスタレーション作品は本来一時的に存在する作品であるが、写真や動画、3D測定器などによって記録することが可能であるので、多くのインスタレーションは記録して残されるものとなっている。このように作品を記録するのは現代美術において通例のことである。
インスタレーションの宿命である一時性という空間と時間が限定された作品を、臨場感を伴って記録すればするほど、ますますもとのインスタレーションが輝いて見えてくることを知るのである。このときインスタレーションの記録は別の芸術作品として、鑑賞されることになる。したがって、インスタレーションの鑑賞とは一期一会の出会いということを意識すれば、貴重な時間を共有した証でもあり、鑑賞者は様々な視点から真剣に対峙するに違いない。
田辺竹雲斎はインスタレーションの素材のリサイクル性による循環の思想をたびたび語っていた。この作品を構成している虎竹による素材を編むことによって、造形が作り上げられていて、接着剤などは一切使っていないので、作品を解体すれば、また別の作品の素材として使用できる性格をもっていることからの言葉である。制作に使われている竹ひごは何度でも使用可能であり、使用されている素材は以前に世界各地でのインスタレーションに使われてきたものも含まれている。リサイクルによる循環の視点は田辺竹雲斎のインスタレーションのはかなさを救うものといえる。一期一会という日本の茶道の美学にも通じるインスタレーションであるが、素材の循環性によって、作品に輪廻転生のような感覚を覚えるのである。解体された作品は記録の中にしかとどめられないとわかっていても、現実の竹ひごという物質的素材がこれまで使われてきたインスタレーションの素材であり、また次の作品の素材として蘇生していくことを想像するだけでも、作品の永遠性を感じることができる。ここに一過性のインスタレーションとは違った在り方を見て、過去から未来へとつながる現在の作品をしばし見つめてしまう。確かに田辺竹雲斎のインスタレーション自体がさまざまな表情をもっていて、それだけで十分に鑑賞の対象となっている。それに加えて、作品の過去と未来までをも想起させるようなインスタレーションであれば、それらは世界各地で出現するインスタレーションの変容する姿であるといっていいであろう。
彼がメトロポリタン美術館や大阪市立東洋陶磁美術館に設置したインスタレーションの作品名を《GATE》と呼んでいるのも、単に展示空間での入り口に置かれたからではなく、もっと深い意味が込められている。田辺竹雲斎のインスタレーションは現在から未来へと向かう《GATE》であり、現在は最も密度の高く確固とした現実である。また天と地とを結ぶ造形としても、やはり《GATE》を通過して、天から地へ舞い降りまた天に向かうさまを現わしている。虎竹の織り成す筒の中は生命の気が行き来する通路でもあり、そこではしっかりと竹の精霊が構造体を支えているのである。
田辺竹雲斎のインスタレーションの基本構造は直線の竹ひごを荒く編んでできるものであり、ミクロに見れば多数の直線から構成される多角形が全体の表面を覆っている。六角形ないし多角形は竹ひごによって区切られてできていて、そこから構造体の中と外が透けて見える。全体の造形はシンプルな多角形に還元されてしまうといっていい。田辺竹雲斎のインスタレーション作品は20世紀のモダニズムの流れの中で登場する抽象的造形に見られる還元主義の文脈に位置づけられる。造形的には直線だけのシンプルな材料が用いられ、それを編んでできる曲面だけで構成されている。基本的要素だけで構成される還元主義的造形がトポロジカルな形となって全体が形作られている。田辺竹雲斎はここに天と地、現在と未来、内側と外側、陰と陽、光と影といったような2元論的な意味を込めている。
自然の素材をそのまま扱おうとする日本人の工芸的な感覚が現在まで継承されてきている。ブルーノ・タウトは「日本の優れた陶工、金工、漆工、竹工等はヨーロッパ的意味での職人などではなく、まさに芸術家であり、時として画家よりも上位にあるとさえ思われることがある」といい、「工芸家は伝統がなければどうにも仕様がないし、またいかに才能が優れていても些細なことに失敗しないためには技法に関してあらゆる経験を積んでいなければならない。」「現在の当主はこの伝統的家系を相続するものとして、過去と現在とを同時に踏まえているのである。」(『日本の芸術―ヨーロッパ人の眼で観た』-工芸)と記している。工芸の中でも特に竹工芸は、その自然の素材を作品のテクスチュアーに使い、立体造形を作り出した。竹工芸の基本的要素は竹ひごを編むことによって、平面や器物の造形を作ることである。さまざまな編み方によって器物の表情は変わり、繊細な表現から荒々しい表面までいろいろな可能性を持っている。
田辺竹雲斎は長年の研鑽と修練によって、竹工芸のあらゆる編み方に通暁し、竹工芸世界のリーダー格となっているが、近年は竹工芸の可能性の限界に果敢に挑戦してきている。本来の工芸的なものと呼ばれる枠組みを逸脱した、巨大なインスタレーションは日本的な感性を残しつつも世界の美術史の中ではっきりとした位置を占めている。日本の工芸から出発しているが、日本独自の感性を超えて、芸術作品として存在感のある作品となっているのである。
具象的な世界を写し取り表現しようとするのではなく、あくまでも線や色彩によって構成される抽象的な造形を基盤としている。そして色彩は絵具で着色されたものではなく、田辺竹雲斎は四国のある地域だけで自生する虎斑のある竹のみをインスタレーションに使用している。
この虎の斑紋は規則性のない抽象的な文様であり、現代美術が目指していたものに通じる偶然性の視点が認められる。抽象絵画の始めは「色彩を駆使して純然たる光を思わせる揺らぎの効果」を狙った表現であり、例えばターナーでは、船が描いてあるけれども船は見えずに具象的なものへの連想がない極めて抽象的な造形となっている。田辺竹雲斎の使う竹の表面には具象性はなく、抽象的な造形といえる。また、竹ひごで構成される多角形というシンプルな要素に還元されてしまうのである。田辺竹雲斎のインスタレーションでは、日本の伝統工芸の高度に洗練された技巧を排除し、荒い亀甲編みで制作している。ある意味では、竹工芸のあらゆる技法を完全に習熟したうえで、こうした基本的ともいえるプリミティブな編み方をすることによって、現代美術として通用する表現になっている。
田辺竹雲斎の制作過程を見ると、まずインスタレーションの設置場所に何度も足を運び、ドローイングを描きながら構想を練っている。ある意味では建築家と同様なプロセスである。竹ひごは虎竹を10分割して6ミリ、7ミリ、8ミリの幅で丁寧に準備され、いくつかのサイズの長さに整えられている。このインスタレーションに準備された虎竹の竹ひごは2011年から使用しているものから、2019年に新しく制作された竹ひごまで混在していて、東洋陶磁美術館での《GATE》では約1万本の竹ひごが準備されたという。
制作プロセスは、片方がザルのような筒型を編み上げていき、U字型に曲げたパーツをいくつか作り、つなげていき、また広く編んだパーツを組み合わせたりして全体像を形作り、細部の形を最終的に整えて、制作を進めていた。約2週間で完成させている。
竹工芸では一人の作家が制作の全工程において、自分の手を使って編まなければならない。指先の感覚を最後まで使いながら、制作をしているときに、芸術的な造形を作ろうという発想が生まれてきても不思議ではない。田辺竹雲斎の制作過程を見ていると、制作する行為そのものが芸術的な実践のように思われてくる。ひたすら編みこんでいる姿は修行僧のようにも思えてくる。あるいは音楽を演奏しているようなことにも通じている。彼はインスタレーションの制作過程そのものが芸術的な実践であると自覚して、作品を制作しては、解体し、また再び制作しては解体するという流れのなかに自らの身をまかせているかのようである。
作品の制作にあたって、装飾性のある伝統的な竹工芸から、一切の文様を排除し、また具象的な器物を連想するような要素を排除して、制作することで純粋な造形になっていく。作品の表面は微分が可能な、流れるような曲面となり、滑らかな形が全体を構成して、技術的にできる限りの巨大な作品へと挑戦しているのである。
田辺竹雲斎は工房の弟子とともにインスタレーションの制作を行ってきた。公開制作も時には行い、制作過程を見ることが出来るが、弟子たちは作られる作品のイメージを共有して、共同で制作する。一人一人が作家として作品を制作する力量があるので、田辺竹雲斎が言葉で指示する内容を的確に理解し、共同制作できるのである。このようにして巨大なインスタレーションが可能となり、また統一感のあるインスタレーションが完成していくのである。
日本の伝統的な竹工芸が現代において反映されているインスタレーション作品は一過性の出来事に終わることなく、永遠性をも内包しているのである。