前﨑信也 京都女子大学 准教授
豊かな自然に育まれた青くしなやかな竹。何千・何万という竹ひごを割り・削り、全霊を込めて編む。2色に染め分けた極細の竹ひごを組み合わせて江戸時代の絵師 伊藤若冲の虎を表現したかと思えば、土佐の虎斑竹をふんだんに使ってパリで全高8メートルの作品を造りあげる。四代田辺竹雲斎(1973 – )の作品は、歴史的であると同時に現代的であり、常に外の世界に広がりを求め続けてきた。
四代田辺竹雲斎(三代小竹・本名健雄)は1973年に大阪の堺に生まれた。曽祖父である初代竹雲斎は既に他界。祖父が二代として活躍し、後に三代を襲名する父は田辺小竹を名乗り作家活動をしていた。家族の生活は竹と共にあり、物心つく以前から彼も竹を編み始める。そして、当然の事であるかのように東京芸術大学 彫刻科に入学。誰の目にも、代々続く工芸一家の一員として歩むべき道を歩んでいるように映ったことだろう。しかし、大学で彼を待っていたのは、事前に予想もしていなかった数多ある人生の選択肢だった。竹が一生をかけてしたいことであるのか分からなくなり、大学に行けない数年間、あるかもしれない「竹」以外の未来を見つけようとした。その結果気付いたことは「竹」こそ、彼の人生そのものということだった。
一度決意に至ればもう悩むことはなかった。父に許しを請い、竹を編んだオブジェ作品で東京芸術大学を卒業。大分県立竹工芸訓練センターで2年間学ぶ。日本を代表する竹工芸産地で自家とは異なる技術を習得するためである。実家に戻った後は、父の傍らで代々受け継がれてきた技術を学び、今日まで技術習得と独自技法の模索を続けてきた。
加工しやすく工作に適した竹は、古来よりアジアの人々の生活と共にあった。縄文時代の遺跡から竹を編んで漆で固めた器が出土しており、この植物が日本人の生活空間を支え続けてきたのだとわかる。以来、建築から細密な工芸まで、さまざまな目的に利用されてきた竹。実はそこには安価で便利な素材であるということ以外にも大切な意味がある。
古来、中国において竹は「節操」(自らの主義主張を信じてかえない)という資質を象徴する文様とされてきた。寒い冬でも青々と立ち、風が吹いても倒れることはない。その凛とした佇まいにも関わらず、中は空洞で世俗のことには関知しない。これこそが、人の上に立つ人が持つべき素養のひとつであるとされたのである。
この考えはいつしか日本にももたらされた。そして竹は、多くの歴史的絵画に描かれ、文房具や調度品の材料やデザインモチーフとして使われ続けてきたのである。つまり、田辺家代々の当主やその弟子達が生みだしてきた作品には、竹を使うということに既に意味がある。その思想が、同じ素材や技術をかわらず使い続けていくという態度にも表れているのである。
竹を使うということの他に田辺家歴代に共通する特徴といえば、歴代が新しい技術をその伝統に付け加えて来たという歴史であろう。初代は文人文化の流行した時代を象徴する唐物籠。二代は極限まで細く仕上げた竹ひごから生み出される軽やかな透かし編み。三代は竹を編まずに複雑に組み上げるという抽象造形。先代達が広げてきた技法を手に入れた四代も伝統に違わず、独自の作品を幅広く展開してきた。
三本の柱
四代田辺竹雲斎の現在の活動は三本の柱に支えられている。まずは明治時代に端を発する堺の竹工芸家として制作する花籃等の用途ある作品。代々伝わる技法を応用し、年2回の日本伝統工芸展で発表を続けている。2012年には日本工芸会新人賞を、2015年には、日本伝統工芸近畿賞を受賞。そして、二代の透かし網を想起させる軽やかさを湛えながらも、現代的な造形を実現した《千筋組花籃 創造都市》は2016年の日本工芸会奨励賞を受賞した。伝統的技法を駆使しながらも、現代的な造形を持った作品。竹工芸界を牽引する若手作家として中心的な活躍を見せている。
更に近年、彼の作品は欧米での認知度が高まっている。1980年代、絶滅の危機にあった日本の竹工芸界を救ったのが米国での人気の広がりだった。竹はアジアを想起させ、大型の作品は富裕層の豪華な邸宅の広いスペースに映える。用途のある器よりも、幾何学的な要素を持った竹の造形作品が今日に至るまで注目を集めてきた。田辺も大学の卒業作品以来、様々なテーマで作品を発表。近年はアメリカだけではなくヨーロッパからも注目され、海外の美術館・博物館に所蔵される作品も年々増え続けている。単に心の赴くままに制作をするのではなく、国内・国外の傾向を把握し、作品を使い分ける周到さもその活躍の背景にあるのだ。
二本目の柱は、異分野の工芸作家とのコラボレーションである。漆芸作家の若宮隆志と共に、竹工芸に高蒔絵を施すという、明治時代に失われたとされる技法の再現に成功。一回目は「プライスコレクションの若冲」、2回目は「空海と高野山1200年」、三回目は「禅」と毎回テーマをかえて、同技法を用いた作品の発表を続けている。
当初、若宮と二人だった活動は、その後、新しい展開につながった。2014年、田辺、若宮の他に截金ガラスの山本茜、乾漆の笹井史恵、白磁の若杉聖子を迎え、異素材の出会いをテーマにした「融合する工芸――出会いがみちびく伝統のミライ」展を銀座和光ホールで開催。2016年には、若宮・笹井に加えて、自在置物の満田晴穂、木彫の小黒アリサ、陶芸の加藤亮太郎、金箔工芸のマニュエラ・ポール・キャバリエが参加。大阪高島屋で「融合する工芸――旅に出たヤドカリの話」展を成功させた。
このプロジェクトのテーマは工芸の再融合だ。江戸時代には様々な素材を組み合わせて成立していた工芸が、明治時代に欧米の博覧会に出品するため素材で分類された。それから百年以上もの間、素材ごとにバラバラに進化してきた工芸がもう一度「融合」すると何が起こるのか。発表された作品の新奇さは多方面で注目を集め、工芸コラボレーション流行の火付け役となったといえる。
最後の柱が竹のインスタレーションである。「記憶に残すアート」をテーマとして、2011年の堺・山口家住宅での展示を皮切りに、毎年異なる会場で、場を感じ、そこに在るべき造形を表現してきた。会場で制作し、展示期間が終われば解体するため、記録ではなく記憶に遺す作品となる。解かれた竹は水につけると再生し、次の制作に再利用される。つまり、田辺がこれまでインスタレーションを行った場所の記憶、作品が鑑賞者にあたえた記憶は、両者を媒介した竹によって紡がれていくということだ。「継続」と「再生」の繰り返しが、時間を超えた空間のつながりを生み出すのである。
竹は高知のある山にしか生えない虎斑竹を使う。およそ20本に1本程の確率で、虎のような班模様が表面に浮き出てくる不思議な竹だ。その理由は解明されていないが、この竹を他の山で育てても模様は現れず、普通の青い竹に育つという。素材の珍しさと共に、前述のとおり竹には「節操」という本来の意味がある。曲げることのない高潔な意思が作品の土台を支えているとも言えるだろう。
2015年10月、ヴェルサイユ宮殿から北に約10キロのラ・セル=サン=クルーにあるフランス迎賓館で日仏美術交流展が開催された。12日間をかけて制作した《Beyond connection》は、日本とフランス、そしてそこに携わる人々を三つの柱として表現し、それらが絡み合いひとつになり空間全体を包み込む。5か月の展示期間が終わると、これまでの作品と同様に解体されたが、竹はそのままフランスに保管された。そして、2016年2月、フランス国立ギメ美術館で日本人初のインスタレーション作品として《五大》を発表。世界を構成する五つの要素が交わり合う世界を表現した。
円形の会場にそびえたつ巨大な作品。その前に立つと、フランスにいながら日本を感じ、生活から失われつづける自然の慈しみが聴こえる。田辺がそこに提示しているのは、世界的な時間と空間をつなげる新たな手法であり、社会に向けて囁きかけるのは、変化し続ける自然にいかに我々が関わるべきかという問いである。
驚くべきは、これら三種の異なる活動において記録してきた成果のほとんどが、この5年ほどの期間で達成されたものということだ。そこには彼の作家としての在り方に寛容であった、故三代田辺竹雲斎の存在があった。更に、彼をとりまく大勢のサポーターが果たしてきた役割がある。
まずは家族。やさしさに満ちた彼の「つながり」をテーマとした作品からは、家族への想いがキラキラと溢れだしてくる。母と妻、そして父を誇りに思う3人の子供たちは彼の精神的支えだ。次に、数も種類も増え続ける作品制作を補佐する弟子たち。緻密に編まれた手に収まる大きさの煙草入から、巨大インスタレーションまで、多彩な作品制作は彼らなしでは不可能といえる。そして、共に作品を作り、良い影響を与え合い、学びの場をシェアできる工芸作家たち。作家とは異なる芸術的視点から田辺に気づきを与える華道家や茶道家。作品を美しく記録に残す写真家やデザイナー。彼の人生を後世に遺そうとする美術史家。
これだけ大勢の人が彼を中心に集まり高め合う。作家として軸は揺るがせにせず、他力に頼ることのできる力。人と人とを繋げ、あたらしいモノと未来を創り出していく力。つまり、芸術を生み出す自力の側に、芸術を高め広げるための他力を築き上げて来たこと。それこそが、四代田辺竹雲斎が稀有な存在として日本の工芸界に存在している理由であり、彼と田辺家、そして日本の竹工芸界を未来に繋げる原動力となるに違いないと私は信じている。