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Tradition

There are two categories of works
that articulate bamboo in the practice of
fourth-generation Tanabe Chiku'unsai.

四代田辺竹雲斎
CHIKUUNSAI IV
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竹雲斎の系譜と四代

Essay 竹雲斎の系譜と四代

諸山正則 東京国立近代美術館主任研究員

初代田辺竹雲斎から三代へ

江戸時代末期から明治時代にかけての頃、中国文化や文人の教養趣味に対する関心が高まり、煎茶道への嗜好もかつてないほどの全国的な隆盛期を迎えた。竹工では、文人趣味を強く反映して、唐物至上の籠花入や盛籃、提籃、炭取など、唐物の写しや唐物風が流行した。その中心地であった大阪では、専門職としての籠師が多く登場し、技巧の卓越や妙趣を競い合った。なかでも、初代早川尚古斎、呑光斎、初代和田和一斎が優れた名工として知られた。特に、多くの博覧会等で名声を博しその自負から作品にいち早く作銘を刻した初代尚古斎は、籠師として進取の気象を発揮して傑出した活躍をした。その子の三世尚古斎は美術製籠家としての姿勢を明らかにして、いうなら個人作家として創作を表し、個性の大切さを訴えて大阪の竹工芸界の重鎮となった。

早くから初代和一斎のもとで頭角を現した初代田辺竹雲斎(1877 – 1937)は、師匠格の三世尚古斎に触発され、伝統の技量の確実さと精緻精細な編みの卓越にとどまらず編組や染色の研究も重ねて独自の表現の獲得に努めた。例えば、福扁形や舟形、吊り形などの多様な花籃の形態に優美な装飾を施す編組を表した柳里恭式という、自らの挿花の風雅な感覚とを融合して独創の様式を創作した。また、風趣よろしく美しい弓矢の古材でその朱や黒の漆塗りと金箔の加飾が施されたいわゆる古矢竹を胴の張りに応用し、透かしを効果的とした亀甲二重編みや四ツ目返し編みなどによって、自適の感性を発揮して文人籃の趣向を基調としつつ何よりも自由かつ清新な個性的創作を獲得した。いうなら近代作家として竹工芸の曙光を築き上げ、そして今日にいたる関西竹工芸の基軸を形成した。

1922年大阪の長堀橋・高島屋に美術画廊の開廊記念第1回展として富岡鉄斎と並び名器陳列会を開催するなど、精力的な個展活動をとおして新作を発表し、1925年にはパリ万国現代装飾美術工芸博覧会受賞などをとおして、近代作家としての名声を確実にした。陳列会に際して、初代竹雲斎は、豪放な三世尚古斎に対して、「花道の蘊奥を研究した体験」と制作の堅牢さにおいて秀でており、その性格は「温順璧のやうな中に熱心な研究的態度のある名匠肌の人である。談論風発、奇才縦横の尚古斎に反して、何所迄も無邪気一方正直一図の熱心家である」という批評があった。その性情は、実は二代竹雲斎にもよく通じた印象があり、拝察するに田辺家の風情のようにうかがえる。

田辺家伝統の継承の形態を作った二代竹雲斎(1910 – 2000)は、大正時代末期から昭和時代初期に日本工芸の近代化に対する意識が高まり、東京を中心に大きなうねりが巻き起こった頃、幼少期から青年期を過ごした。わずか5歳となる年の初代の個展会場で籃編みのデモンストレーションをなし、15歳となった1925年には早くも小竹雲斎の号をもらい初個展を開催したという。1931年の第12回帝展に飯塚琅玕斎とともに初入選を果たし、そして1937年父・初代が没して後に二代竹雲斎を襲名した。大阪竹工芸の伝統と様式、用の美をよく踏まえて自らの創造の基盤とし、美術製籠家という系譜の伝統を芸術の域に高めるべく、古典的な作調と清新な創意ある意匠構成とで頭角を現した。戦後には日展で活躍し、彫刻を意識した立体造形や装飾に個性的な創作性を表した大分の生野祥雲斎や大阪の二代前田竹房斎、東京の飯塚小玕斎らとともに、現代にいたる竹工芸の造形表現の可能性を開拓した。

1952年の日展で特選を受賞した《螺旋紋花籃》のような細いヒゴを用いた精細で驚異的な亀甲透かし編みや鱗編みによる制作や、長い丸ヒゴを線的に積層した構成の透かしのイリュージョンを効果的にした馥郁たる造形、細いヒゴで丹念に編み目を整えた千筋編みの端正なで彫刻的立体を求めた制作、また鳳尾竹で海の潮や飛ぶ雲といった不定形の自然の事象を優美な造形とした荒編みの制作など、柔軟な思考と存分な技量を発揮して活躍し、関西の工芸の重鎮として人望を集めた。

そうした1960年代から70年代にかけての頃、同時代的に海外の芸術が流入するなか絵画や彫刻、多様な現代美術が激動したなか、工芸界でも造形と装飾の革新に対する意識を新たにした多くの工芸家が現れた。三代田辺竹雲斎(小竹、1940 – 2014)と弟の田辺陽太(1944 – 2008)は、1960年代後半頃、前衛的な立体の現代美術的傾向に同調した既存の工芸的な形の範疇を超えた、言い返すと現代美術の造形思考に迫る竹工の芸術へと展開させた。

武蔵野美術大学で工芸工業デザインを学んだ三代竹雲斎は、二代に師事して伝承のわざをよく修得するとともに、弓矢に用いる矢竹を丸竹のまま積層の構成や直線と円形とが組み合わさった建築的な構造を想起させる造形などに新たな創造を見出した。同じく武蔵野美術大学で油絵を学んだ陽太は、丹念に下拵えした虎斑竹で素材的特質を生かしつつ自由な編組によって大地の自然なかたちを抽象的なイメージで表した立体や藁屋根の農家をモチーフに情感を込めた「育農」のシリーズで、自らの生きる意識を自然の造形と結びつけて竹工芸に特異な作家性を発揮した。

田辺小竹から四代竹雲斎へ

二代竹雲斎は1991年に代を小竹に譲り、自らは一竹斎と号して悠然と創作三昧の晩年を過ごした。田辺小竹は、そうした祖父と父のもとで幼少時から竹編みや小刀に馴染んだという。これは系譜の才能の継承を促すこともあろうが、初なうちから自然に身体を素材と竹工に沿わせ、工芸のわざと美に親しめたのであろう。

私ごとを申せば田辺家との関わりは、1984年に二代竹雲斎を訪ねてその制作と竹工芸について懇切な教示をもらい、翌年東京国立近代美術館工芸館で開催した特別展「竹の工芸――近代における展開――」への出品協力を要請したことに始まる。以来、幾たびか田辺家を訪れては穏やかな人柄にすがりつつ二代及び三代竹雲斎に関西の竹工芸の歴史と芸術に対する姿勢をうかがい、1989年に『東京国立近代美術館研究紀要 第2号』に論文「竹工芸近代化の曙光――初代田辺竹雲斎小論――」を発表するにいたった。

その間に田辺小竹(健雄、1973 – )と接することはなかったが、1999年であったか、東京藝術大学美術学部彫刻科の卒業制作展で健雄の大きなインスタレーション作品に初めて、衝撃的に出会った。そして2003年東京のアートスペースでの個展「つながり」の会場で、一抱え以上の一連の立体造形「Connection-つながり-」大作シリーズへと繋がった。伝統の編組のわざに依るのでなく、入念な竹の拵えがなされた虎斑竹の大量のヒゴを用いて渦を巻き込むようなエンドレスのイメージの、現代美術的な立体を指向するたくましい造形とした制作に、生命の連鎖や伝統の芸術の継承への意識を伺わせていた。2014年に私が企画したシンガポールでの現代工芸展に併催された地元の芸術大学校での講演とデモンストレーションでも、聴衆を引き込む経験豊かなパフォーマンスを披露して日本の竹工芸特有の伝統を知らしめ、竹の芸術の気鋭の作家であることを実証した感があった。

小竹は、アメリカやヨーロッパ各地の美術館やギャラリーに招請され作品発表と講演やデモンストレーションによる精力的な活動を重ねており、現代美術家としての評価を高めてきている。特に、2012年正木記念邸(正木美術館)での竹の茶室や2016年パリ・ギメ美術館での《五大》制作など、竹という天然の素材に日本(人)のアイデンティティを意識する小竹は、生命に通じる水や風といった自然界の事象の相関を”つながり”のイメージでとらえ、それを屋内空間に構成するインスタレーションで注目されている。そして近年は、日本伝統工芸展で田辺竹雲斎家の伝統や関西竹工芸の系譜に連なるその芸術を踏まえた清新な創作によって受賞を獲得するなど、伝統工芸の作家として頭角を現してきた。さらに、髹漆の乾漆造形で知られる気鋭の笹井史恵や蒔絵師の若宮隆志とコラボした、竹工芸の新境地の開拓にも挑んでいる。

このように田辺小竹は、大阪竹工芸の美術製籠の系譜を正統に担いその覚悟を確かにして、ここに四代竹雲斎を襲名する。多くの作家が近代化の歴史と現代の造形芸術としての領域を拡充してきた日本の竹工芸は、今日、国際標準の芸術として広く認知され、まさに国内以上に世界から高い関心が向けられている。四代竹雲斎には、現代美術家としてのパフォーマンスとともに伝統を牽引する将来の先導者としての期待が担わされている。